「チロル会音楽部 〜ロック青春記」 第4話

        チロル会音楽部、活動開始!

 実は、「チロル会音楽部」が始められるまでの経緯を、僕は知らない。チロル会本体にも、初回からは参加していなかったし、その後も毎回参加していたわけではなかった。
 時系列に関する記憶もかなり曖昧で、男生徒同士のジャンケンによるチロルチョコ奢り合いが次第に豪華に変化していった流れの途中のどこかで、音楽部もスタートしていた可能性も高いし、奉仕活動部の話が出たのも、会発足からどのぐらいの月日が経過したころだったのか、分からなくなっている。
 そこに加えて、チロル会というのは、ここまで読んでお分かりいただけたように、総合的な組織なので(笑) 各分野ごとの流れを追って書くと、どうしても分野間の時間のずれが生じてしまうわけです。


 チロル会音楽部の演奏に最初に接したのは、録音されたものを聴いたときだった。男子部員数名が、末原君宅に楽器を持ち寄って、ギター、ウクレレ、オルガン、ハーモニカ、タンブリン、大正琴などで、独奏やアンサンブルなどを演奏して楽しんだ。その日演奏された曲が何だったか、おぼろにしか覚えていないが、映画音楽の『駅馬車』のテーマと、小牧君が、ザ・タイガースの『花の首飾り』を歌っていたことだけは覚えている。
 それを録音したオープンリール・テープを学校に持ってきて、部活が始まる前の時間に、音楽室の備品のテープレコーダーで聴いて、楽しんでいた。
 ところが、その日に限って、いつもはそんな時間には姿を見せない指導の先生が入ってきた。
 ヤバい…。その瞬間、全員凍りついてしまった。
 勝手に備品を使っているのを目撃された。しかも、録音されているのは、部活に不満で演奏している自分たちの演奏。曲目も学校教育の場に相応しいとは言えない。相手は、決して穏やかな性格の持ち主ではない。常日頃、特に男子生徒に対する指導には容赦がなく、言葉も辛らつ極まりない。

ところが、彼の反応は、意外にも好意的なものだった。 その様子から判断すると、たぶん彼は胸のうちで、こう呟いていたに違いない。
「熱意ある俺の指導が、こんなに音楽好きな子供を育てたのか…」
 勘違いした彼は、上機嫌で、録音された我が教え子の演奏に聴き入った。そして、器楽部の練習を開始する前に、それを皆に聴かせ、好意的なコメントを添えた。
 初回のメンバーの中に誰がいたのか、記憶はかなりぼやけている。ギターの末原君以外に、ウクレレの倉石君、パーカッションの池田君、ヴォーカルの小牧君、オルガンの徳森君が居たのではないかと思う。大正琴を弾いていたのは、誰だったのか…。
 ウクレレや、大正琴など、当時、中学生が演奏するのは珍しく、徳森君の電動オルガンも、バッハのコラールみたいな格調高いもので、皆が描いていたチープなイメージを超えていた。聴いていた器楽部員たちも、小声で「へえ、これオルガンなの?」と感心してささやき合う、といった反応を見せていた。
 1曲ごとに、会長山下君のナレーションが入っているのも面白かった。声に張りがあり、抑揚も豊かでなかなか茶目っ気があった。中でも、徳森君の演奏の前で「普通のオルガンですよ。カッコいい!」と言っていたのだけが、今でも妙に耳に残っている。
 こんな感じで、チロル会音楽部がスタートし、2回目の練習からは僕もそこに参加させてもらうことになる。その後、メンバーも入れ替わってゆき、3年になった頃からは、急速にロック・バンドとしての方向性が固まるが、このころは、まだそんな気配は微塵もなく、そのまんま老人ホームの慰問に使えるような、素朴でのどかな音を出していた。

 話は一旦変わって、ぼくらが駅馬車などを演奏し始めた1968年という年、イギリスのロック・ワールドに目を移すと、大きな変革の波が押し寄せていた。ヴォーカルのみがヒーローだった時代は去り、才能溢れるギタリストたちが視線を集め始めていた。高度な演奏技術と革新的な表現力を前面に押し、新たな時代のヒーローとして台頭してきていた。
主な記録を拾い出してみると、
ジミ・ヘンドリックス&ジ・エクスペリエンス、アルバム『アー・ユー・エクスペリエンス』で初のゴールド・ディスクを獲得。
ジェフ・ベック・グループ、NY・フィルモア・イーストでアメリカ・デビュー。
クリームが、『クリームの素晴らしき世界』をリリース。
レッド・ツェッペリン、アトランティック・レコードと契約。

 一方、日本では、タイガース、テンプターズらのグループサウンズ全盛時代。ある意味魅力ある若者たちで、その個性的な歌声も懐かしくはあるが、アイドル的人気が席巻する中、際立った音楽的才能が登場する土壌は育っていなかった。
 前年暮れの、フォーク・クルセダース『帰って来たヨッパライ』のヒットで、アングラ・ブームが起こり、何か面白いことをやりそうな気配は漂っていたが、ちょっと毛色の変わった音楽という以上のものではなかった。
 68年の来日アーティストの顔ぶれからも、当時の日本における音楽市場の未熟さが見えてくるようだ。
ウォーカー・ブラザーズ、モンキーズ、ベンチャーズ、スプートニクス、エリック・バートン&ジ・アニマルズなど。英米でジミ・ヘンドリックスや、クリーム、ジェフ・ベックらが活躍していた、まさに同じ年のことなのだが…。
 これは、海外から伝わってくる情報が、極端に少なかったということの現われとも言える。
 
つづく


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