「チロル会音楽部 〜ロック青春記」 第2話

        チロル会発足

 中学に入学して間もなく、音楽の先生から声をかけられて、器楽合奏部に入部した。このことが良くも悪くも、中学3年間を濃厚に彩ることになる。

現在ギター名人と呼ばれる末原康志君と知り合ったのも、その器楽部でのことだった。まだ4月中だったと思うが、音楽の先生から指名され、彼が部員全員の前でギターを披露した場面を、昨日のことのように思い出す。曲は「禁じられた遊び」だった。

 

 僕が生まれた昭和31年というのは、ちょうど終戦から10年が経過、経済企画庁から「すでに戦後ではない」という宣言がなされ、高度経済成長が始まろうとしていたころである。戦後の荒廃から立ち上がり、世の中がようやく豊かになり始めたころ、かつて自分が習いたくても習えなかったピアノを、子供には習わせたいと考える親も多かった。そんな心を、楽器販売戦略と結びついたヤマハ音楽教室の体系的な早期教育が見事に捉えた。自分の意志などと関係なく、気が付いたときは音楽教室に通わされていた。両親ともにクラシックなり、ジャズなり、ポップスなりの音楽を楽しんで聴くという習慣を持っていたわけではなく、生活の中にほとんど音楽的環境は存在していなかったと言ってよい。それまで、レッスンで、ツェルニーの練習曲や、モーツァルト、ベートーヴェンのソナタなどに接したのと、学校の音楽の時間に鑑賞教材を聴いた程度の音楽体験しかなかった。

小学校5〜6年、モーツァルトのソナタを弾くようになったころから、ようやく表現することの面白さを感じ始めてはいたが、それも束の間、高校教師だった父が、ピアノを続けていては、勉学に差し支えるのではないかと言い出し、中学入学直後にやめてしまっていた。こうやって改めて当時を振り返ってみると、そのころまでの音楽との付き合い方というのは、少しばかりイメージ的に豊かな広がりを欠いていたと言わざるを得ない。

 

 その日、末原君は、大切そうにギターを取り出して弾き始めた。目の前で弾かれる生ギターの音色そのものが新鮮に感じられたし、興味の赴くままに、自分が弾きたいから始めたという彼の姿勢が、なにやら眩しくもあった。ハンマーで打弦し、大きな共鳴板を響かせるピアノと違い、ギターは、指先で直接弦に触れて音を出し、フレット・ノイズが聞こえたり、フィンガリングによる音色変化も微妙で、皮膚感覚がそのまま伝わってくるような、より繊細な手作りの音がする。両手に抱え、何か音を愛しむように爪弾かれるギターの音色を聴いていると、自分がそれまで体験してきた、「演奏」という行為につきまとう、生真面目な堅苦しさから解き放たれ、楽な気分になってゆくのを感じていた。

1学年900人以上もいる生徒の顔も知らない顔ばかり、そこにあつまった部員たちの顔もまだ、よくわからない。まだ、詰襟の学生服にも慣れず、中学生活そのものが新しく、緊張と期待に満ちていた。そんな空気の中で、彼がギターを演奏する姿を見て、漠然としたものではあったが、器楽合奏部に何か楽しいことが待ち受けているような期待感を感じていた。

 

 ところが、その期待感は見事に裏切られる。器楽部で男子部員が置かれた立場というものは、あまり居心地の良いものではなかった。アンサンブルの中で活躍する場面は、その後ほとんど無く、打楽器を除いたほぼ全員がハーモニカ要因。来る日も来る日も、あのちっぽけな道具を口にくわえて左右にもぞもぞと動かす作業を、面白いと感じている者はいなかった。そして、どういうわけか、ピアノ担当としてスカウトされたはずの僕も、ハーモニカに回された。ピアノ要員は3〜4人いて、ピアノを弾かないときはピアニカを担当するということになっていたのに、ピアニカの台数が足りなかったのである。その後、補充すると言いながら、いつまでもそれは実現しなかった。指導の先生から個人的に好かれていなかったことは確かである。まぁ、彼とは、実際色々あって、結局卒業するまで気まずい関係にあった。

 

 やがて、男子部員が最も楽しみにするようになったのは、実は、練習終了後、下校途中のひと時だった。誰が発案したのか、ジャンケンして負けたものが、当時定価10円だったチロルチョコレートを全員に奢るという遊びが定着してしまった。名づけて「チロル会」。1個10円という破格値が、中学生同士の、こういったささやかな楽しみを実現可能にしてくれたのである。

そのうち、チロル会も徐々に規模拡大。ジャンケンは廃止され、裕福な家庭の子が、皆に大盤振る舞いするようになった。学校のそばにあった、まるみ屋というパン屋に寄り、調理パンとベビーコーラを注文するというのが定番となった。このパン屋、販売スペースの奥に、簡易食堂みたいな食事スペースが設けて有り、そこでのひと時が、なんとも魅惑的な空間となった。まだコンビニというものが存在せず、サンドイッチやカツロールなどが、今みたいにどこにでもは売っていなかった時代に、その店の一番の人気商品はカツパンだった。濃厚ソースのかかったハムカツと刻みキャベツが、ロールパンに挟まっていたのだが、あのパンが、中身は柔らかくて、焼き面には艶があって、しかもこちらは食べ盛りの10代である。それはもう最高に美味かった。今こうして思い出しながら書いていたら、思わずよだれが出てきそうになり、笑ってしまった。

そこで話題の中心となったのが、部活の愚痴というのが少し悲しい感じがしないでもないが、器楽部での表の世界と、下校途中でのクスクス笑いに満ちた裏世界、この2つが表裏一体となって、心理的なバランスが保たれていたことも、ある意味事実であった。生徒間のこの繋がりがなければ、たぶん早々と器楽部をやめていただろう。

この中学生たちの晩餐は、次第に派手になってゆき、甚だしいときには、調理パン2個にコカコーラのホームサイズをラッパ飲み、なんていうダイナミックなことをするヤツもいた。名誉あるチロル会会長・山下君である。長身で飄々とした感じの彼の、またのあだ名は馬。体も胃袋も、サイズは大きめだった彼にしても、それだけのモノを胃袋に入れると、当然、克服しなければならない問題が発生する。夕食が喉を通らないのである。

彼が考案した対応策は、家が近づくと、暫く走り、息を切らしながら帰り着き、家族が誰か見ているところで、水をカブ飲みする。食事中に、首を捻りながら「水を飲み過ぎて、食べられない」と呟く。しかし、こんなことが繰り返し通用するわけがない。この作戦には、皆、腹をかかえて笑った。

 

つづく



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