「チロル会音楽部 〜ロック青春記」 第1話

        マンモス中学校

今年1月下旬のある日曜日、夕方5時過ぎに、携帯電話を充電ホルダーから取り上げてみると、知らない番号からの着信が、数回記録されていた。一体誰だろう? と首を傾げながらパソコンに向かい、メールを開いてみると、福岡在住の友人からメッセージが届いていた。

 

―さっき鮫島君から電話が来ました。末原君との
ジョイントコンサートのプロモートで鹿児島に来て
いるそうです。末原君とも何十年ぶりかに話しました。

バナナスタジオの宮脇さんとも打ち合わせが
あるみたい。明日か明後日ぐらいまではそちらにいるようです。
君の携帯の番号も教えたので電話来るかも?

 

 メール中に出てくる鮫島君・末原君は、同じ中学の同期生でミュージシャン。“バナナスタジオの宮脇さん”は、最近出入りしている貸しスタジオの経営者だ。4月に故郷・鹿児島でジョイント・ライヴをするということは、宮脇さんから聞いて知っていた。ライヴ・ハウスのキャパは小さいから、宣伝費までは出せない。関係者一同で集客に協力しなきゃならん、という話をしていたのである。

着信記録の主が誰なのか、これでようやくピンときた。慌てて電話してみると、2人揃って天文館のジャズ喫茶にいた。午後6時から、キッチン・バー《赤とうがらし》でライヴの打ち合わせをやるから、気が向いたらどうぞ、という誘いだった。“気が向いたら”ってあんた…、気が向かないわけがないでしょうが(笑)

6時まで、すでに30分を切っている。これといって用も無い日曜日。油断空間にどっぷりと浸り切っており、髪の毛の寝癖もそのまんま、髭も剃ってないというスタイル。そんなんで人に会えるわけがないのだ。大慌てでシャワー室に飛び込んだ。

元ハウンドドッグの鮫島君とは、5年ほど前、当時住んでいた長野県にツアーで来たとき1度会っているが、末原君とは、電話で1度話したことがあるだけで、実際に会って話したことはない。最後に会ったのは、鹿児島にいた18才の頃だから、31年ぶりということになる。

 

約1時間遅れで店に着くと、末原君と鮫島君が席を立ってきて握手で出迎えてくれたのが嬉しかった。

すでに乾杯も終わり、半分以下になったジョッキが並んでいた。この日の連絡は、主催者、バナナスタジオ、同窓生と、様々な経路で回ったらしいが、誰もが、僕への連絡は真っ先に行っているだろうと思ったらしい。

末原君の横の席に案内され、懐かしい話に花が咲いた。その後の話は、もうすべて省略(笑)

 

鹿児島市立城西中学校、今では、生徒数600人余という、ごく普通の規模になってしまったが、その昔、僕らが通っていた頃は、3千人という桁違いの生徒数を抱えるマンモス校として有名だった。1学年20クラスもあり、3階建ての校舎が3棟並んでいる様子は、さながら大病院のようであった。1学年全ての生徒の顔を覚えるなどということは、まず不可能であり、それどころか、全校にたぶん100人以上いたであろう先生方の中にも、知らない顔がざらにあった。

そんなマンモス校の悩みのタネ筆頭格は、運動会だった。3度経験した運動会は、すべて開催方式が異なっていた。

1年のときは、学年ごとに別れ、校区内の3つの小学校で行なわれた。上級生のいない不慣れな運動会は、盛り上がるはずもなく、正直言って、なんの記憶も残っていない。

2年のときは、県立競技場を使って、全学年合同で行なわれた。しかし、大競技場を借り切っての運動会は、いかにも閑散としていた。何万人も収容できる会場で、3000人しかいないのである。観客席の一箇所で行なわれる応援合戦は、晴れ渡った空に空しく吸い込まれ、眼前に迫ってくる桜島が、やけにでかく見えた。

3年のときは、以上の反省を踏まえて、狭き本校のみで、全学年、全生徒が参加して執り行われた。運動会担当の先生たちにとっては、これは大変な難問題だったと思う。

全員参加が前提の運動会である。3000人の生徒をどこかの競技に参加させるために、複数の競技が同時進行で行なわれた。で、競技を見るのは地面の上ではなく、校舎の窓からである。派手な応援合戦などできるはずもない。ちなみに、そのときぼくが参加したのは、「走り高跳び」である。こんな競技、普通、運動会でやるかいな? 砂場に設えられたバーに向かって走っている最中も、どこか他の場所で、ゴチャゴチャとまるでフリー・マーケットのようにいろんな競技が行なわれていて、気分は拡散しまくりだった。

まぁ、そんなバカでかい中学の中で、僕らは知り合ったのである。

 

つづく

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