「ロバのパンに轢かれた事件」 

      その1 鷹師町の思い出

 6〜7歳のころまで、実際にロバに屋台を引かせて売っていたパン屋があった。表向きはそういうことになっているが、ロバは荷車を引くのは不向きなため、パワーと持久力を兼ね備えた木曾馬にロバの振りをさせていたというのが真実のようである。当時は、誰もがロバだと思っていたので、木曽馬くんも、なかなかどうして大した成りきり振りだった。
 ロバという動物は、日本人にとって、現実空間で見かけることは殆ど無く、西洋の童話に登場するメルヘン的な存在、というイメージがある。そんなところも受けた要因だろうと思う。
 「♪ロバのおじさんチンカラリン… 」
 こんな歌詞で始まる、愛嬌たっぷりの歌を流しながら、遊園地の乗り物みたいな馬車を引いてくる様子は、子どもの目からはおとぎの世界からの使いみたいに見えた。これがもし、
 「♪馬のおじさんチンカラリン… 」 
こんなんだったら、なんだかなぁ…、えらく不味そうな感じがするし、なんか「チンカラリン」という鐘の音まで貧乏臭いばかりか、ちょっと不気味な感じさえして、とっとと逃げたくなる。

 まあ、それはどうでもいいとして、そのロバのパン、とくに忘れられないパン屋さんなのである。というのは、3歳になったかならないかといった頃、このパン屋の屋台に足先を轢かれたらしいのだ。子どものころ、父から何度となく聞かされた。
 当時住んでいた鹿児島市鷹師町でのこと。ある日曜日の午前中、扉の外から、子供の泣き声が近付いてきたかと思うと、それに重なって、知らない男性の慌てた呼び声が聞こえる。外に出てみると、我が息子を抱きかかえたパン屋さんが、おろおろとした様子で立っていた。
 「すみません。轢いてしまいました」
 慌てて靴を脱がせ、轢かれたという足を見てみると、別段、怪我をした様子もない。圧迫されたような赤い跡さえ、全く無かったという。大事には至らず、ほっと胸を撫でおろした。
 しかし、パン屋さんは気の毒なほど恐縮しまくって、お詫びにパンをいくつもくれたらしい。
 「パン屋さんは、弾いてしまったと思ったようだけど、実際は靴先にちょっと触れたか、それか、近付き過ぎて驚いたか、どっちかだったんだろうね」
 父は、いつもそう結ぶくせに、次に同じ話をするときは、決まって、
 「ロバのパンに轢かれたことがあるんだよ」
 と切り出すのだった。
 その日の直接的な記憶は残っていない。しかし、子どもの頃、何度となくこの話を聞かされたので、ロバのパンと言えば、今でもこの「轢かれた事件」を思い出す。
 それが3歳前後だと考えられるのは、その町に住んでいたのが、3歳の誕生日の直後までだったからだ。

 昭和30年代前半。鹿児島市鷹師町。平田橋そば。現在の鷹師1丁目。
 聞いた話によると、当時そのあたりは寂しいところで、国道3号線側から平田橋を渡って、家に向かうまでの道など、街灯も無く、夜になるとあたりは闇に沈み、人通りもほとんど無く、足音が聞こえたりすると、同居していた叔母(当時中学生)は、怖くてたまらず、走って家に向かったという。
 地理に関する直接的な記憶はかなりおぼろで、家の前の細い路地を出ると大通りがあったことと、左へ歩いてゆくと交差点があったことぐらいしか覚えていない。行動範囲は、厳密に決められていて、その交差点のところまで。前の広い道路は、1人で渡ってはいけないと言われていた。それより向こうへ行くとヒトサライが来て連れて行かれる…、と常々おどされていた。

 その限られた行動範囲内での、断片的な記憶がいくつか残っていて、その中でも印象的なのが、大通りに面した低い石段に腰掛けて、よく外を見ていたこと。天気の良い日は陽射しがぽかぽかと暖かく、そこに掛けているだけで気持ちが良かった。
 そのころは、まだ今のように車の多い時代ではなく、前の道路も未舗装だったので、鹿児島特有の、火山性の白っぽいシラス土壌が剥き出しになっていて、車が通ったり強めの風が吹いたりすると、砂埃が舞い上がり、長時間そこにいると、体中が砂でザラザラになった。
 そのままの状態で家に入ろうとすると、母からストップがかかり、ぶつぶつと小言を言われながら、全身をパタパタとはたかれた。それが実にうるさくて、逃げ出したかったが、バタバタと抵抗してみても、二の腕をむんずと掴まれて、身動きできない哀れな小僧であった。

 日当たりの良い窓には、よく布団が干してあり、日光を吸収してふっくらとした布団の暖かさを感じるのが好きだった。その窓の上あたりに棚が作ってあり、そこにラジオが置かれていた。
 なぜそんな高いところにあったかというと、その頃、母だか叔母だかが、良く聞いていた番組で、NHKの「一丁目一番地」というドラマがあって、セリフのほかに、自転車のベルやクラクションなどの効果音も聞こえてきたので、中に小さな町があって小人がいるのだと思い込み、覗いてみたくてしょうがなかった。だから、子どもの手の届かないところに、わざわざ棚を作ったのだ。高い所にあるラジオを、恨めしげに見上げた記憶が残っている。
 かつて両親が語ったところによると、長男の僕がラジオを喜ぶだろうと思っていたのに、むしろ妹の方が、その音のでる箱を不思議がって、盛んに興味を示したらしい。そう言われてみると、這い這いしながら、まだ乳歯も生えていない口を開けて笑いながら、何かを見上げている妹の写真を見たことがある。たぶんラジオを見ている様子を捉えたのだろう。
 ただ、それは親から見た様子であって、3歳に近い子どもが、0歳児と同じように、ニタニタと笑って見上げたりしていれば、頭の成長具合にちょいと問題があるというものじゃないだろうか? 反応の仕方が違っただけの話で、並々ならぬ興味を持ったのは確かである。

 近所に、家族で営んでいる水飴工場があったのも、ラジオに負けず劣らず、たいそう魅力的だった。道路側とは反対方向の裏手に隣接していたので、怖いヒトサライがやってくる危険もない。ちょっと退屈したときなど、そこにふらふらと迷い込むと、必ず水飴を貰えた。親からは、あまり行ってはいけないと言われたが、3才前の幼児が水飴の魅力に抗えるわけがない。毎日のようにそこに行ってはどんどん水飴を貰って舐めていた。
 常盤町に引っ越してからも、たまに、親と一緒にそこまで歩いて買いに行っていた覚えがある。小学校1年ぐらいまでは行っていただろうか…。小学校に上がってからは1人で、直線距離にして約1.2キロを歩いた。その年頃の子どもにとって、徒歩での1.2キロは、決して近い距離ではない。それほど水飴に魅力を感じていたということだ。

 初めての大雪も、そこで体験した。3歳年下の、1月生まれの従弟が生まれた日が、その大雪の日だったらしいので、そこを引っ越す2ヶ月前だったことになる。
 その雪の日、中学生の叔母や、うちのちょうど裏側にあった水飴工場の石川さんの子どもたちや、その若いパパさんなども参戦して、楽しそうに雪玉を投げ合っていた。3歳前だったので、自分で投げようとしても、目の前に落ちてしまう。そばに行くと邪魔になるので、「このへんから見ていて」と、安全な観戦場所を指定され、そこから叔母が息を弾ませて投げるのを観ていた。1人蚊帳の外で、退屈だったイメージが残っている。
 人生初の雪だるまも、そこで作った。動作を真似して転がしていただけだったので、うまく丸い形にできなかった。だから、それも結局、叔母が作るのを見ていた。 
 その雪だるまは、翌日になると溶けてしまったが、何の用だったか、親に連れられて、単独行動許可範囲を越えて、南へと歩いて行くと、道路を挟んで向こう側の、日当たりの悪い壁際に、大きな雪だるまが残っていて、その大きさといい溶けないことといい、大層奇妙な感じがした。そこは1人で行けばヒトサライに連れ去られるところだ。もしかすると、そのヒトサライが、魔法のように「溶けない雪だるま」を作ったのかも知れない。それが溶けないまま石に変わったという、かなりおかしな記憶までが残っている。
 どうも、でかくて溶けない雪だるまのインパクトが強すぎて、デフォルメされた夢まで見てしまい、それを現実だと思い込んでしまったようなのだ。しかし、夢だと思えないぐらい、その石ダルマの表面の質感などが、妙にリアルに記憶されている。

 「ロバのパンに轢かれた事件」は、そのように、現実認識も実に頼りないころの出来事だった。


つづく

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