「 想い出ノート 」

     

 高校2年のとき、誰でも参加出来て自由に書けるノートを作ったことがある。現在ではインターネットも普及し、誰でも書き込める公開BBSというものが多数存在するが、言わばそのアナログ版である。このようなノートを作って回した経験は、多くの人にあるのではないかと思う。
 書き込んできる人の顔がはっきり分かっていて、参加人員の広がりも現実空間に支配されるため、同じ高校の同期生の兄弟姉妹が広がりの限度だった。だから、書き込みの内容が衝突することも、決して珍しいことではなかったが、どこかほのぼのとしていて、荒んだものにはならなかった。結局そのノートは卒業まで続き、10冊にまで増えた。卒業後の1年、鹿児島に残った若干名の間で「11冊目」なるノートも回された。
 主な参加者は、りまた、秋山水(しゅうさんすい)、殺人芸術家、著者、そしてトライトンの5人。その他、たまに参加した人が、無我、よっこ、無名氏、クプクプ、Bamboo、その他数人。まずは、主要5人について、簡単紹介にしてみようと思う。

 では、リマタから。
 おっとりとして人当たりが良く、偶然出会うと、目を細め、唇の端っこで遠慮がちに微笑んだ。油絵を描くのが趣味で、アングル作の『泉』をこよなく愛し、ノートにも、よくイラストを描いていた。それは決して流麗な線ではなかったが、そこに描かれた人物は、不思議な孤独感を漂わせ、風変わりな童話の一場面でも見ているかのような独特の魅力があった。
 その反面で、ミステリー小説も好み、「魑魅魍魎」という四文字熟語を偏愛していた。ノートに書き込まれた文章での用法は完全に常軌を逸していて、「なんて素敵で、魑魅魍魎で、心が躍るようなことでしょう!」なんていう調子だった。
 また、彼は、ちょっと不思議な能力を備えていた。指先で文字を読むことができたのだ。彼の視界に入らないところで紙に文字を書き、2つ折りにして渡すと、それを腰の後ろに回し、そのままの状態で、その文字を答えた。それがマジックだったのか超能力だったのか分からないが、当時の記憶を辿ると、どうもその状況で、タネを仕掛ける隙があるとは思えなかった。
 リマタに関する記憶で、もうひとつ印象的な場面は、剣道のクラスマッチでの戦いぶりだ。竹刀を上段に振りかざし「えーい!」と気合いの入った声を出し、わずかに伸び上がって踏み込んだかと思うと、対戦相手の頭部に、スコーンと鮮やかに決めていたのだが、その時、相手が、あまりにも無防備にそれを受けてしまうのが不思議だった。
 剣道部の部員に、彼の強さについて問いかけてみたことがあるが「いやいや」と否定的な反応だった。今思うに、あれは剣道の技と言うより、相手の心理的な虚を突くのが巧みだったのではないかと思われる。その後のエピソードを振り返ってみても、そう思える節がある。

 秋山水。
 彼は、武道家を自認していた。柔道の腕にはいくらか自信もあるようで、ノートへの書き込みの中に「男として」という言葉が、頻繁に見られた。
 彼に関して、真っ先に思い出すのは、体育の授業での、ある一場面だ。武道の時間に、柔道の先生が彼に興味を示し、皆が見ている前で対戦したことがある。内容的には、秋山水のほうが優勢だった。彼に組み伏せられたときに先生が発した言葉。
「こりゃあ、強いわい!」
 柔道のクラスマッチで、上級生を締め落とし、恨みを買って付けねらわれたり、ある朝登校してきた彼の顔に、絆創膏が貼られていて、「それ、どうしたの?」と訊くと、返事もなく、不機嫌そうにむくれていたことがあった。どうも皆の知らないところで、皆が知り得ない活躍をしていたようなのだが、そのあたりについての詳細は、彼の口から語られることが無かったため、よく分からない。何かと、武勇伝的な噂の多かった男である。
 彼の部屋を訪ねると、そこには、どういうわけだかサバイバル・ナイフや非常食、固形燃料がいつも置いてあった。突然の災害に備えていたというわけでもなさそうなので、その品揃えを思い起こせば、アウトドア・ライフに興味を持っていたことは確かだ。知能指数150というのが自慢の秋山水は、それらの用具の使用法など、豊富な知識を得意げな表情でいろいろと披露してくれていたのだが、その当時、こちらがその方面に興味が薄かったため、いつも適当に聞き流していた。そのため、彼の思いのほどを、ほとんど理解することはなかった。
 そういったエピソードとイメージがピッタリ合致するのが、エアライフルに凝っていたこと。リマタもそれに影響を受け、よく2人揃って射撃場に行っていた。従業員にコーチをしてもらったら上達したとか、余分に弾を貰って嬉しかったとか、よくノートに書き込んでいた。僕も、何度か射撃場に誘われたことがあったが、そちらもほとんど興味が無かったので、1度も行ったことはなかった。

 殺人芸術家。
 写真家志望。彼のハンドルネームは長かったので、「殺芸」と呼ばれていた。彼とは、出身中学も同じで、3年のときは同級だった。彼の家は、中学のそばにあったので、よく誘われて遊びに行ったものだ。好きなロックのレコードを持っていって聴いたり、そばの飲食店に行って、焼きそばを食べたり、といった思い出が残っている。
 そのころから、写真撮影に興味があることは知っていたが、それが高じて、アルバイトで貯めた金で、自室の一角に暗室を設け、モノクローム写真を自分で現像して焼いていた。
 カメラマンという言葉を嫌い、写真家という言葉にこだわり、そして「美」を「完璧な構成」と解釈し、いつもそれを追及していた。カメラを首から下げ、鹿児島市内外をあちこちと歩き回っていた。
 高校の文化祭でも、当然自作品を展示したが、学校の中という閉じた空間だけでなく、対外的に発表して手応えを感じたかったようで、市役所の市民画廊を借りて、個展を開いたこともあった。その当時、高校生が市民画廊の使用願いを出すことが珍しく、担当者がかなり驚いたらしい。その担当の方と彼のお母さんがたまたま知り合いだったため、そんな情報も伝わってきたのだが、それを僕が知ったのは、それから20数年経った後、お母さんの言葉によってである。
 彼の特徴をいくつか挙げるとすれば、ルックスも特筆モノということになるだろう。実際、かつての級友と当時の彼の話になると、その容貌について及ぶこともある。その美少女のような風貌から、中学時代に通っていた塾で、一部の女生徒から、「彼女」というニックネームが付けられたとか、朝登校して靴箱を開けてみたら、そこにラブレターが入っていた、などというエピソードも何度か聞いたことがある。
 高校時代の彼は、肩まで髪を伸ばし、黒ぶちの眼鏡をかけ、眼光鋭く、凛とした雰囲気を漂わせていた。高校時代になってからは、彼のうちを訪ねて行くと、書棚からいろいろ引っ張り出してきて、感想を求められることが良くあった。しかもそれが、ベトナム戦争の戦場で撮られた銃殺の瞬間の写真だったり、フランツ・カフカの哲学的な1文だったりして、簡単に答えられないようなものばかり。脳の中のいつもは決して使わないような部分を無理に使わなければならなくて、大層困ったものだ。それでも、時間をかけてゆっくり言葉を捻り出すと、満足気な表情が返ってきたものだ。今振り返ってみても、学校の中で流れている空気とはまるで異なる、時として少し緊張感の漂う、一風変わった友人関係だったと思う。
 そういったエピソードや、「殺人芸術家」というハンドルネームから感じられるように、絵に書いたような「芸術家気取り」の少年だったわけだが、美貌の彼には、それが良く似合っていたし、彼はまた、それを十分自覚していた。だから、そういう彼と並んで歩くときは、いつも引け目を感じていたものだ。

 著者。
 5人の中で、唯一の女性メンバーである。ちょっと小柄で色白、美人という評判もあった。いかにも、きちんとした家庭で育った感じの、安心して見ていられる外見に、論理的な喋り方を好む少し小生意気な内面を持つ女の子。だけど、挨拶するとき小首を傾げて微笑むなどという少女らしい自己演出もちゃんと心得ていた。言葉の最後にちょっとだけ相手を見据える癖があり、それが勝気な印象を与えてもいたが、それがまたちょいとチャーミングでもあった。
うちから歩いて1分という近所に住んでいたので、たまにロックのレコードなどを抱えて、無駄口を叩きに行くこともあった。彼女には1つ違いの妹がいて、たまにノートに書き込むこともあった。長身でスタイルの良い子だった。
 著者も、殺芸と同じように写真に興味を持っていたため、ノートが切っ掛けで仲良くなり、現像やプリントの技術を殺芸から教わったり、たまに2人で撮影に出かけたりもしていた。当時、写真に関しては、殺芸に対して尊敬の念を抱いていたと思う。
 しかし、その前に、すでに触れた殺芸の美しい容貌が、まず最初に彼女の心を捉えたように見えた。小生意気でも、まだまだティーンエイジャー。彼がノートに加わり始めたころのこと、他のクラスからやってきてノートを置いて去ったあと、ちゃんと乙女の弾む声で、目をハートマークにして、その印象を語っていた時期があったのを覚えている。

 最後にトライトン。
 これが、ノートの創始者でもあった僕だ。トライトンというのは、ギリシャ神話に出てくるポセイドンの息子。海の神であるが、そこから取ったというよりは、ロック・バンド、エマーソン、レイク&パーマーのバンド名の候補に挙がったという没ネームから拾った。まさに、ロック・キーボード少年だったころのことである。

 ノートに書かれた内容については、とくに触れるまでのことはない。「人工と自然」「芸術について」などのタイトルを思い出すが、さほど内容が深まることは無かった。少し時間をかけてまとまった文章を書き、そこにイラストなどが添えられたりするので、直接的な会話の遣り取りとは、また一味違ったコミュニケーションが楽しめ、ノートを通じて、次第に仲良くなっていったのは確かだった。
 リマタと秋山水、そしてぼくの3人で、海に泳ぎに行ったことがある。2人ともアウトドアに関しては経験が豊富で、薩摩半島の海水浴場よりは、桜島の岩場を素潜りしたほうが遥かに楽しいという提案に従った。潜るのであればシュノーケルと足ひれが必要だというので、その時、初めて買い揃えた。
 自転車で桜島桟橋へと向かい、そのままフェリーに乗り込み、桜島へと向かった。デッキに立ち、潮風を受けながら、船の前進が巻き起こす飛沫や、遠い波間で揺れる光、飛び交うカモメの姿などを楽しんでいると、雄大な姿を見せている台形の山が次第に間近に迫ってくる。約3キロの航路、わずか15分弱で対岸に到着する。鹿児島市と桜島というのは、それほど近いのだ。世界的に見ても、海を挟んで、火山と都市が迫っている地形というのは、他にはナポリとベスビオスがあるのみである。よって、ナポリと鹿児島は、1960年に、風景が似ているということから、姉妹都市盟約を結んでいる。
 桜島に着いた後は、西に海の輝きを見ながら、自転車3台を連ね、南へと進んだ。一体どの辺りで泳いだのか、今地図を見ながら記憶を辿っているのだが、地形から判断すると大正溶岩の中のどこかであることは確かだ。
 シュノーケルの使い方と耳抜きの方法を教わり、いざ潜ってみると、岩肌から海藻が伸び、その周辺で可愛らしい魚たちが遊んでいる姿が見えた。なるほど、これは素敵だと思った。手を伸ばすと届きそうなところを小さく綺麗な魚が泳いでいるのである。そのとき見たのがどんな名前の魚だったのか、30年以上前の記憶を頼りに、「錦江湾の魚」で検索してみたのだが、釣り人対象の食用魚ばかりがヒットし、謎は謎のままで、何も分からなかった。
 足ひれとシュノーケルの効果も初体験し、それまで砂浜でばかり泳いでいたのが、なんとも味気なく思えてきた。その楽しさにすっかり取り付かれ、くたくたになるまで泳ぎ、潜った。
 海からあがって桟橋付近の大衆食堂で食べたラーメンが上手かったのが、強烈な印象として残っているのだが、たぶん、それは味そのものより、極度の空腹感が一気に満たされる幸福を、ひたすら胃袋で感じ取っていたのだと思う。

 帰りのフェリーで、近付いてくる薩摩半島を見ると、夕焼けの色が僅かに残る空の下で、鹿児島の街が輝いている。ほの暗い空を背景に浮かび上がる街。そこで生まれ育ち、そこで暮らしている3人にとっては、夕闇迫る大気に抱かれた遠景としての我が街など、いつも見れる光景ではなく、疲れた体をベンチに沈めたまま、次第に言葉も少なくなり、やがて黙ったままその、自分たちの帰りを待ち受けている街の夜景に魅入っていた。
 しかし、街が優しく待ち受けてくれていたように感じたのは、単なる妄想に過ぎず、厳しい歓迎ぶりが身に染みた。全身のくたばり具合は想像以上で、大腿筋が痛み、ペダルは重く、腕に力が入らず、ハンドル操作はヨレヨレ。大袈裟ではなく、本当にフラついた。この様子を偶然見かけた人は、たぶん笑いを堪えるのに困ったのではないかと思う。ペダルの一漕ぎに、えっちらおっちらと体重を預けながらの、わずか4キロ程度の自宅までの道のりが、往路と同じとは思えないほど長く感じられた。

 誰かの誕生日がやってくると、それぞれ手作りのプレゼントを作って渡した。
 殺芸からのプレゼントは、自分で撮影した写真を引き伸ばしてパネルに貼ったもの。演奏する機会があると、殺芸いつでも駆けつけてくれ、いろんなアングルで撮ってくれた。他の人が撮る写真は、まるで静止しているようなおとなしいものになることが多かったが、彼の撮影だと、いつも動きの感じられる迫力あるものになっていた。音が聞こえてくるような写真なのだ。だから、いつも写真が出来上がるのが楽しみだった。
 僕からのプレゼントは、1本のカセットテープ。その内容は、オリジナルやコピー曲を、ピアノと電子オルガン、そして歌を多重録音して作ったものだった。
 リマタは、大抵絵の具を塗った板に、釘のようなもので引っ掻いて描いた絵を持ってきたが、僕の誕生日には、実に奇妙なものを持ってきた。
 20本入りのタバコケース程度の小さな箱を持ってきて、開けてみろという。なんだか妙に意味有り気な顔をしているので、おかしなカラクリが仕込んであるようで、少し嫌な予感を感じつつ、蓋を開けてみると、そこに入っていたのは、人の手の指の形をしたものだった。切り口のところは鮮やかな血の色をしている。リマタの左手を見ると、中指に包帯が巻いてあり、不自然に短く膨れ上がっていた。たぶん、その中で折り曲げられているのだろう。自分の指を切り取ってプレゼントという意味らしいのだが、あまりにも子ども染みて、面白く思えなかった。高校生のやることではない。こういう場合、一体どんなリアクションをしたら良いのか分からない。たぶんつまらなさそうな顔をしていたのではないかと思う。
 「ちょっとそれ触ってみて」と言うので、手を差し伸べて触れてみると、その途端に背筋がゾクッとして、慌てて手を引っ込めた。感触が余りにもリアルな人の手だった。物体に触ったというより、人の指先と“触れ合った”という感じがしたのである。
 「僕の指だよ」
 リマタは、ニヤリとして言った。そのような感触を持つ物は、人の指以外に想像できなかった。
 「血が抜けると、そんな色になるんだよ」
 その蒼ざめた指には指紋もあり、実物そのものといった弾力を備えていた。
 一瞬であるが、解剖用の死体置き場に忍び込んで切り取ってきたのかも、というイメージが頭の中を走った。思考をかき乱されてしまうほど、その指に触れたときのショックは大きかった
 どうやって作ったかなかなか明かさなかったが、ついには白状して「ガムで作った」と言っていた。そのガムというのが、一体どのような物なのかまでは訊かなかった。
 このように、リマタは人を驚かすことに不思議なほどエネルギーを費やすことがあった。そんな具合だったので、リマタがノートに何かを書いても、皆あまり真面目に受け止めようとはしなかった。あのことを書き始めたときも、みんな大して気に留めていなかった。

 夏休みの課外授業をサボって、県立図書館に行ったとき、キリシタンの財宝について書かれた古い本を見つけたというところから、その話は始まっていた。著作は花田某氏と書かれていたが、フルネームは思い出せない。少しずつ、何回にも分けて書かれ、その何回目かに、本の中に、宝を埋めた場所を示す暗号のような文章を見つけたことが書かれていた。その辺りまでは、その書き込みが皆の意識に飛び込んでくることはなく、リマタの絵空事を遠めに眺めているといった感じだった。
 それが微妙に変化し始めたのは、リマタ自身による暗号文の謎解きが書かれ始めたころからだった。解読していった過程、それに従って実際に行動し、その裏に込められた意味を、ひとつひとつ解き明かしていった様子が書かれ、皆そこに惹き付けられるようになり、あれはどうも嘘ではなさそうだと、次第に話題にのぼるようになっていった。
 僕らが通っていた高校の敷地は、福晶寺という古い寺の跡地だった。島津家の菩提寺で、その裏手には島津斉彬はじめ歴代の藩主の墓が並んでいる。室町時代のはじめの頃、島津家第七代元久によって建立され、一時は僧侶が1,500人もいたということである。
 暗号文の内容までは思い出せないのだが、その墓地内の墓石や石棺の配置を照らし合わせると、謎めいていた文面からある意味が浮かび上がってきた。ただ、その最終的な解読には、ある古い地図が必要なことも分かってきた。浮かび上がってきた言葉は、その地図の上で意味を成すのだ。そんなものが、見つかるとは思えず、誰もがじれったい思いに取り付かれ、そして落胆していた。
 それからしばらく経ったある朝、リマタは何気ない面持ちで、一枚の古い書面を差し出した。
「地図が見つかったよ」
 骨董屋を巡り歩き、ようやく見つけたというその筆で描かれた古い地図を開き、これまでに解読された言葉にしたがって、その上を指でなぞり、財宝が眠っている場所を特定した。それは、いつもの行動範囲から大分南に外れた、寺の跡を含む公園の中だった。
 その寺は、飛鳥時代、百済の名僧日羅によって開基されたと伝えられ、天文11年(1542年)島津15代貴久のとき改宗して福昌寺の末寺となったという由来がある。暗号文と古い地図によって浮かび上がってきた結びつきは、歴史的背景とも符合していた。
 リマタの暗号解読によると、財宝は、その公園内を流れる川のそばにある大きな木の根元近くを掘れば見つかるはずだ。僕らは早速計画を立てた。シャベル、ナイフ、ロープ、布袋…、必要な道具類を揃えるのは、秋山水の得意分野だった。
 計画が実行されたのは、いつごろだったろうか。リマタの書き込みは、夏休みの課外をサボって図書館に行ったところから始まっている。書き始めは、9月以降だ。それからどのくらいの時間が流れたのだったか…。1ヶ月では短すぎる。2ヶ月ぐらいは経過していたように思う。雨に濡れてかなり寒い思いをしたので、10月下旬か、それ以降だったのではないかと、大体そんな見当を付けていたのだが、古い記録を引っ張り出してみたら、なんと2月だったことがわかった。南国鹿児島と言えども、2月はやはり寒い。
 体が疲れ切るのは必至なので、2日連休の日を待っていた。まだ週休2日制が施行される遥か以前のことで、先生の研究会か何かで、学校が休みになる土曜日を待っていた。
 ところが、その日は、朝からあいにくの土砂降りだった。人目を避けるために、かなり早い時間の出発予定だった。たぶん5時だったと思うが、いくらなんでもこの悪天候だと中止するだろうと思って電話で連絡を取ってみると、誰1人として中止することなど端から考えていなかった。逸る気持ちを抑えることなど無理らしかった。いや、それだけではなかった。考えてみれば、自分以外の3人は、いつも自転車通学をしており、雨など平気だったのだ。
 集合場所がどこだったかは思い出せない。雨合羽に身を包んで、4台の自転車を連ねて目的に向かった。3人とも毎日自転車に乗り付けていたので体力の差を見せつけられる思いだった。なぜそこまで飛ばすのだろう? 多少うんざりしながら、3人の後を、とにかく付いて行った。
 土砂降りの中では、雨具もさして役には立たなかった。叩きつける雨音に包まれ、目に雨が入るので顔をしかめながら、ペダルを漕いでいると、合羽の中にまで雨が入り込んだ。
 蛇行する小川の周囲、小山が連なり草木が生い茂り、苔が石道、石仏群といった太古の遺跡を埋め尽くしている中を、あちらこちらと歩き回り、条件に当てはまる場所を探し回った。足場が無くなると、川の中をザブザブと流れに逆らって歩いた。
 なかなか手がかりは掴めない。数知れない木々の中から特定される1本を絞り込むことは簡単なことではなかった。しかし、わざわざ簡単に見つかるような場所に隠すはずはない。とにかく歩いてみよう。歩いて探してみようと励まし合った。
 地図の上では点に過ぎないその地区も、実際に足を運んでみると、じつに広大だった。公園内にある自然遊歩道は、全長3キロにも及んでいる。
 これは、かなり広範囲を掘り起こしてみなければ、財宝は見つかりそうにない。4人の手足で掘り出せるほど、事は簡単ではないようだ。準備した道具は家庭での庭いじりのサイズで、ここでは砂遊びの玩具同然だ。人目を避けて、これでこっそり掘り起こして富を手にするつもりでいたのだ。この思惑違いは、気分を萎えさせた。たとえ、自分たちが大人になって十分な資金を得たとしても、名勝地とされている場である。実際、この宝探しの1〜2年後には鹿児島市の文化財に指定されている。そんな場所を大掛かりに掘り起こすなど、普通に考えると、まず不可能である。
 すぐそこにあるはずの財宝が、夢とともに目の前から急速に遠ざかってゆく。がっくりと肩を落とし帰途に就いた。自転車に積んだシャベルなどの道具が、無性に恥ずかしくもあった。要するに、自分たちのサイズに合わせて考えていたに過ぎない。来るときは猛スピードだった自転車も、ゆっくりゆっくりと進んだ。
 気持ちが昂ぶり、盛んに動き回っている間は平気だったが、落胆と疲れで動作の鈍くなった体は、降り注ぐ雨にやすやすと体温を奪われ、リマタの家に辿り着いたときには、みんな血の気の失せた顔で震えていた。
 タオルを貸してもらい体を拭き、ソファーに身を沈めたときは、さすがにホッとした。振舞ってもらったミルク入りのコーヒーの温かさが無性に嬉しかった。
 外を見ると、いつの間にか雨も上がっていた。雲の切れ目から、空の輝きが見え始めていた。

 もう30年以上も前のことになる。さて、この話を、あなたは果たしてどんな気持ちで読んでくれていただろうか…。最後に出てきた宝探しのエピソード。話の展開だけを見ると、十分な下調べも無しにいきなり、真冬のそれも悪天候の中で敢行し、足場の悪い場所を、ただうろつき回って、すごすごと帰ってきて終わりである。いくら若かったと言えども、余りにも愚かしく、笑い話としてもいささか単純過ぎる。しかも、これまで書いたことだけで全てではない。もっとバカバカしいことに、4人の中に1人だけ、猿芝居をし続けた人物がいるのだ。そう、リマタだ。
 全ては彼の創作だったのだ。県立図書館で見つけたという古書は、この世に存在しない。珍しい古地図を手にした彼が、そこからイメージを膨らませ、2つの寺の跡を結び付け、数ヶ月もかけて3人を騙し、虚構の世界へと迷い込ませたのである。
 リマタの暗号解読も、それ以前に、古書から見つけたという暗号文自体も、今考えると、怪しい部分が多かった。いや、今と言わず、当時でも疑わしいとは十分感じていた。ところが、できるものならば財宝を手に入れたいという願望を強く刺激されたのと、リマタの巧みな誘導で、知能指数150が自慢の武道家・秋山水、美貌の芸術少年・殺芸、ロック・キーボード小僧トライトン、こいつら3人、ものの見事に、根こそぎ担がれたのだ。
 リマタがこの話をノートに書き始めたころは、実際に宝探しに出かけるところまではイメージされていなかったのかも知れない。創作話を書いているうちに、周りが意外にもその気になり、あとは成り行きでそうなったということも考えられる。いずれにしろ、このことでリマタを恨む奴などいない。とくに実害を被ったわけでもないし、短い夢に終わったとしても、なかなか遭遇できな楽しい経験をさせてもらったのは事実であり、恨むどころか、その憎めない企み、言い換えるならば、ほのぼのとしたプレゼントに感謝している。
 しかし、朝も早くから皆と一緒になって、土砂降りの中を自転車で繰り出し、川の中や周囲を歩き回っていたとき、彼は一体何を考えていたのだろうか? 摩訶不思議な男である。
 その後、リマタのほうから事の真相が語られることはなかった。卒業後数年経ってから、
 あれは作り話だったのだろうと、こちらから問いただしてみると、その時初めて「良くできてただろう?」という答えが、笑みとともに返ってきた。
 リマタに並々ならぬ詐欺師の才能があることは確かだと思う。ただし残念なことに、そのたぐい稀な才能は、その後実益に繋がる形で発揮されたことはないようだ。周囲にとってはありがたいことである。



                  





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