廃車手続き完了の日

 

廃車を頼んだ解体屋に、必要書類を取りに行ってきた。

事務所の窓から裏の作業場が見えていて、スクラップの山にふと目をやると、先月末に引き取ってもらったわが愛車の姿が目にはいった。山積みされてはいたが、まだ解体はされておらず、原型を留めたままだった。引き寄せられるように歩いてゆくと、すでにタイヤは外されていた。3段積み最上段に無造作に詰まれている姿を見ると、なんだか可哀想に思えた。何しろ数日前まで、一緒に動き回っていた車である。

前夜から寒波に見舞われ、天気は荒れ模様、所によっては雪もチラ付いたという天候条件も手伝ってか、少し感傷的な気分になってしまい、すぐに立ち去る気にもなれず、見納めに少しの間突っ立って眺めていた。

 長野時代からの様々な思い出が染み付いている。山道にあった「動物注意!」というたぬきのイラスト付きの立て看板は、まだそのままだろうか?「空き缶べちゃるな!」という看板も、あちこちに立っていた。「べちゃる」というのは東信の方言で「捨てる」。
 遠方から遊びにきた旧友を、高原や温泉地、旧跡など案内して回ったのも、その車なら、あちこちでシンセサイザーのコンサートを開き、楽器その他、器材を積み込んで運んだのもその車。甥っ子や姪っ子を自宅まで乗せてピアノを教えたり、レストランに連れて行ったのもそう。雪道の運転にも慣れたし、タイヤチェーンを巻くのもお手のものになった。
 2年前には、ここ鹿児島まで、約1,500kmの道のりを運転して帰ってきた。最大の思い出となると、はやりそのことになるだろう。

 

紅葉もピークを過ぎ、冬も近づいた11月4日、朝6時20分。2人の姪っ子に見送られ、濃い霧の中での旅立ちだった。

Uターンの理由が、父の衰えだったので心は揺れていた。ほぼ毎晩続けてきた晩酌が原因で、大脳側頭葉中の海馬が萎縮し、新しい記憶が作られ難くなっているという。40代のころから、十二指腸潰瘍、大腸癌など、数回の回復手術で内臓各所を摘出し、人工肛門に頼る生活を送っていることに加えてのことである。

「このことは家族には知らせておいたほうが良いでしょう」

という医者からの言葉を、母から電話で伝えられ、そのころ仕事などでお付き合いのあった方々とその状況を話していても、長男としては、これは帰るべきだろうという結論に達したものの、故郷での生活がどのようなものになるか、よく描けないままのスタートだった。

 

それはともかく、滅多に経験しない車での長旅は、取り敢えず楽しもうと心に決めた。中央道を使って名古屋経由で大阪に入るというルートではなく、時間をかけて木曽路を南下し、それまで見たことのなかった琵琶湖へ寄って、京都経由で大阪へ入ることにした。

三才山(みさやま)トンネルを抜け、通りなれた松本の街をすり抜け、国道19号線を、紅葉に彩られた山々を見ながら、木曽川沿いに南下。移動に伴い気温がどんどん上昇。国道に設置されている電光掲示板を見ながら進んでゆくと、朝9時に長野県木曽郡南木曽町奈良井宿入口で8℃だったのが、10時50分には岐阜県中津川市で20℃と、2時間足らずの移動で12℃の上昇。ちょうど気温が20℃に達したころ、ラジオから、稚内で初雪のニュースが流れ、寒い地方に背を向けて進んでいることを妙に実感した。

 

午後3時ごろ琵琶湖に到着。海のようだと聞いていたが、湖畔には砂浜があり、波が打ち寄せる様子は本当に海のようで、20年も海の無い県に住んだ身にとっては感激モノだった。車を停めて波打ち際まで降り、対岸の見えない広大な湖をしばし見ていた。その付近は、その外周地域よりあきらかに気温が低く、巨大な水の威力を実感。

国道8号線から1号線へと入ると、ちょうど夕陽を追いかける感じになった。その視界を遮るような眩しさも、山に囲まれた信州では体験できないもので、西へと向かいつつあることを、またまた実感。

京都を抜け大阪に入り、従弟の住むマンションを目指した。そこで一旦ゆっくり骨休め。3泊もし、“食い倒れの街”大阪の街を楽しんだ。

姫路のビジネス・ホテルで1泊。翌朝、走行中に臼曇の瀬戸内海に上がる朝陽が印象派の絵画のように幻想的に見えたのが忘れられない。

そして山陽道をひた走り、兵庫、岡山、広島と、太平洋ベルト地帯の広がりを感じつつ、下関から関門橋を渡って、まさに福岡に向かっているときは、出身地である九州へ辿り着いたという万感胸に迫る想いがあった。何しろ28年間も九州を離れていたのである。

 

福岡では2泊し、高校時代からの友人と九州ラーメンやうどん、魚料理など、九州の味を堪能。

福岡から鹿児島まで、高速道路を使わない旅は、大変に時間がかかった。日も暮れ始めた水俣あたりで、鹿児島のラジオ局MBCの電波をキャッチしたときは、大層感激した。28年を経ると、久し振りというより、原体験への再会という感じがあり、何かにつけ感激しまくっていた。

鹿児島県に入ってからが、また長く、実家に到着したのは夜の11時前になっていた。

夜が明けると、そこには山国信州とは別世界の、南国鹿児島が広がっていた。紅葉とは無縁の青々とした山々、青く広い空、ゆったりとした雲、火山灰質の白っぽい地面、鮮やかな夕焼け、街角に普通に見られるミカンの実…。かつて当たり前にみていたものが、何もかも心に飛び込んできた。

 

今の時点で振り返ってみると、このUターンはやはり正解だった。その3ヶ月後に父が、両足の静脈血栓で手術、8割がた手遅れと言われていたが、なんとか間に合って、切断を免れた。しかし、数日間、24時間点滴が必要な状態にも関わらず、小用の度にトイレに立とうとする。尿瓶を使わなければならないのに、そのことを覚えないのである。自分が手術を受けたことも、それ以前に足が痛くて大騒ぎしたことすら覚えていないのだ。そういう状態だったから、24時間誰かがそばに付いていなければならなかったが、病院ではそこまで対応できないということで、家族にその役目が回ってきた。母と交替でベッドの横に付き添った。自分で尿瓶を使うようになるまでに、丸3日かかった。

 

 その後も長野ナンバーを付けたままにしてあったのは、長野から鹿児島へと、ともに行動してきた思い出を、そのままそっと乗っけておきたいという気持ちが働いていたからかもしれない。

今まで何台かの車を換えたわけだが、買い換えるときは、いつも業者任せで、陸運局まで行って廃車手続きなどをやるのは初めてのことだし、使った車がスクラップになるところまで見届けたのも初めてのこと。ほんの数日前まで元気に走っていたのだし、まだ走ろうと思えば走れた。
 見知らぬ他人が設計し組み立てた道具に過ぎないのだが、長年自分の意志のままに動いてくれたわけだし、なんだか可愛い友人みたいに、感情移入してしまっていたことに、そのとき初めて気付かされた。長い間、ご苦労様でした。

                  (2005年 12月)





 


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