「 コーヒーの味 」

 久し振りにコーヒーを飲みたくなり、食器棚の中から、豆とペーパー・ドリップを引っ張り出してきた。 お湯を注ぐと、香りが立ち上がり、そして、ゆったり気分でカップを口にすると、コーヒーの味に重なって、懐かしい思い出がゆらゆらと立ちのぼってきた。

 今を遡ること20数年、某音大に通っていた頃のこと。大学最寄駅のそばに行きつけの喫茶店があった。まだオープンして間もない小さな喫茶店で、その店の看板のデザインをしたのが、同じ音大に通ってた1学年上の女の子の叔父さんだった。そういった関係で、カウンターの向こうで知り合いの音大生がバイトしていたり、お客の中にも顔馴染みの学生がいることが多かったのだ。サイフォンに溜まってゆくコーヒーを眺めながらお喋りしていたあのころを、何故か久し振りに思い出している。
 客とはいえ、完全に友達感覚の延長だったわけで、自分以外に誰もお客がいないときなど、こっそりと只でコーヒーを飲ませてもらったり、逆にこちらが無報酬で使いっ走りをしたりと…、なんだか学園祭の模擬店みたいな感覚だった。ある日ある時、マスタードの補充を頼まれ、近くの食料品店から和風辛子を調達してきてしまい、結果として、その後しばらく使えるお笑いネタを提供してしまったこともあったなぁ…。
 記憶は次から次へと、芋づる式に蘇ってくる。女子寮に住んでいたバイオリン専攻の先輩で、予知能力や透視能力があるという人と会ったのも、その店だった。失くした物などは、その人に頼めば100%出てくる、などとという評判を聞きつけ、人伝に頼んで、未来を占ってもらったことがあったのだ。普段は本名を使わず、姓名判断に乗っ取った名前を使っているような人だった。確か“さおりさん”と呼ばれていたと思う。ただし、そのときの予知は外れてしまったけれど…。
 その店の周辺に漂っていた空気の中には、想いを寄せたり寄せられたりといったエピソードもあった。既に話に出てきた、店の看板をデザインした美術家先生の姪っ子さんも、よくカウンターに入っていて、あれこれと親しく話すうちに、恋が育っているものと勘違いしてしまい、惨敗してしまったということもあったし、逆にこちらが想いを寄せられた相手には、一瞬心が動きながらも、結局はイマイチその気にならずといった具合で、そちらの方面に関しては、すべてチグハグだった。
 その店、喫茶店なわけだから、当然、“ブルマン”だの“キリマン”だの“アメリカン”だのという注文が飛び交っていたわけで、そのうち、誰が何を注文するのか自然と覚えてしまったし、その頃から豆による味の違いを意識するようになった。あれこれと試しているうちに、「甘い香り、上品な酸味、芳醇な風味」が特徴とされる“グァテマラ”、そして「独特な香り、まろやかな酸味とコク」の“モカ”にたどり着き、音大卒業後は、メニューでより多く目にし、スーパーなどでも容易に入手できるモカに絞られてきた。
 後に母校を訪ねた折、その付近を歩いてみたのだが、その店もすでに無くなっていた。あそこに集っていた何人か、今ごろどうしているのかなぁ…。

 場面は、それから一気に20年近く飛ぶ。長野県上田市に住み、作曲やピアノ指導をして暮らしていた頃のこと。当時教えていた30才前後のピアノの生徒さんから、コーヒーのギフト・セットを頂いたことがあった。
 包装を解いて蓋を開けてみると、箱の中にコーヒーの入った缶が3本並んでいた。豆の名前は、知らないものばかり。あの音大時代の喫茶店通い以来、モカ好きは、変わらず継続してたのである。
「コーヒーがお好きだとおっしゃっていたので」
 という言葉を思い出しては、
「ああ、それだったら、もっと細かいところまでチェックしてほしかったなぁ」
 などと、ギフトを目の前にして立ちすくみながら、胸に充満してくる我侭な気持ちを持て余してしまう自分がいた。そのときは、決して「モカが好き」と言っておかなかった自分ではなく、贈ってくれた相手に対して落胆していたのだから、全く勝手なものである(笑)そして、次の瞬間には、そのギフトに対する興味はしぼんでいった。
 そのうち買い置きしてあったモカも無くなり、折角だからと、あまり気乗りもせず、もらったコーヒーの缶を開け、それを入れて飲んでみた。で、一口飲んだ瞬間、コーヒーカップを手にしたまま、一瞬固まってしまった。
 それまで口にしたことのないまろやかで豊かな味わい! いや大袈裟でなく、実際にその瞬間そう思ったのである。これは一体何なのだ??
 そこで慌てて箱に缶に印刷されていた説明書きを読むと、豆はブラジル産。コーヒーの豆と皮の間に甘味成分が多く含まれている部分があり、そこだけを集めたもので、通常は出荷されず、農園経営者、および従事者だけの密かな楽しみのために飲まれる…、なんだかそんなようなことが書かれていたのだが、記憶だけが頼りなので、微妙に違うかも知れない。
 ギフトの贈り主が次にレッスンにやってきたときに、改めてお礼を言い、入手先を尋ねてみたのだが、頂いてからちょっと間が開いていたこともあり、その生徒さんの記憶も曖昧になっていた。特に厳選したというわけでもなく、たまたまそのギフトセットが売り場にあったということだったらしい。

 その後、しばらくはその豆のことが気になりながら、徹底調査することもなく、やがて嗜好もコーヒー以外のものに移ろい、10年近い歳月が流れた。
 今こうして、故郷鹿児島で、特別豆に拘るでもなく、なんとなく秋を楽しみながら、コーヒーを頂いている。
 しばらくは覚えていたはずの、あの豆の名前も、今では忘却の彼方。モカとか、ブルーマウンテンなどのように短い一つの単語でなかったことだけは覚えているのだが、「コーヒー」でネット検索してみても、今のところ、それらしき名前には行き当たらない。

                           (2005年 11月)

※追記
 その後、95年に書いたエッセイが出てきて、そこに豆の名前が書いてあるのを発見。
 カフェ・ショコラーダ。コーヒーの生豆と殻の間には、メラードという甘味成分があるのだそうで、この成分が特に多いものの中には、脱穀したあとも茶色の皮膜として残るものがあり、チョコレートのような香りを放つ。そういう豆ばかりを集めたものをカフェ・ショコラーダと呼ぶ。



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